小林茂氏は、茨城の緒川村、美和村という日本の農村地区に起こったある一つの市民運動について言及しています。
このインタビューは、憲法で守られるべき権利が公的権力によって剥奪された反対住民の無力さと、政治家の放蕩無頼、政治の無策さにも焦点をあてます。
小林 茂 KOBAYASHI SHIGERU,
1931年、茨城県常陸大宮市上小瀬生まれ。
農林業に従事、この間、緒川村議七期、議長、農業委員会会長。
県営緒川ダム問題に取り組む。
現緒川郷土文化研究会会長、茨城県歴史教育者協議会会員。
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『幻のダムものがたり』
− 緒川ダムの三十三年 −
2002年、文芸社 (Amazon.co.jp)
8ページ「流域一覧図」
122ページ「建設要請集会であいさつする竹内知事」
127ページ「建設協定書調印」
左手前が小林氏。
以上、図版・写真『幻のダムものがたり』より
『万民救の旗のもとに』
− 茨城農民一揆・明治九年 −
小林茂著、2006年
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※ このインタビューの日本語とフランス語のページは各々編集されており、全くの相互直訳ではありません。
フランス語のページでは、説明のための補助文や追加資料が挿入されています。
◆緒川ダムに関する著作
『村は沈まなかった』
— 緒川ダム未完への記録 —
箕川恒男著 2001、那珂書房
…県が演じたボタンのかけ違いと無責任さを含めて、このダムはいったいなんだったのかという疑問をのこす。(P.45)
『水をめぐって』
— 「緒川ダム」の軌跡 —
箕川恒男著 1994、筑波書林
◆緒川ダムに関するサイト
公共事業中止のルール確立を
公共事業中止に個人補償制度の導入を提言する 茨城県議会議員 海野 隆(民主党)
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日本は1960年−70年代にエネルギー確保と安全(治水)の名において、水源(河川)開発事業の改革をしました。ダム産業の発展主義の政策は、混沌とした精神状態の不安定で絶望的な地域生活へと降下させます。
都会への移住は止まず、農村は弱体化し日本の水源河川はコンクリートの津波にさらわれ、一つの世代が消え去ります。実際、人間的にも経済的にも環境的にもこのような混乱を正当化できるものは何もありません。
東京は、自由主義クライアント主義やバナナ共和国を節度なく操ります。
腐敗と負債は流行病を全県に広げます。災難は茨城の水戸まで及びます。横柄な大都市と差別された田舎の間に生まれるトラウマや怒り、社会分裂で、知事は次々と代わります。
当時緒川ダム反対運動のリーダーの一人であった若き村会議員の小林茂氏は、30年以上の間、“塩の砂漠”を彷徨うことになりました。
このインタビューで、経済・政治の倫理、ネオリベラリスム−新自由主義、経済規制緩和、日本憲法について意見を聞かせていただきます。
後半では、1876年に、明治天皇政府への反抗の舞台となった現在の緒川地区(常陸大宮市)で起こった小瀬一揆に関する史実書、小林氏の最新作『万民救の旗のもとに』を交えて進めます。民主政治や革命、歴史の哲学的観念、歴史家の政治的アンガージュマンや日本の共産党などお話ししていただきます。
– 1 –
小林さん、こんにちは。
小林さんは本郷地区(常陸大宮市)の農家の出身で、村会議員(議長)でした。そして歴史家でもあり、最近行われた常陸大宮市議会選挙では日本共産党員の候補者を支援していました。
今日のこのインタビューは、1967−68年ころよりはじまりこの何年か前にやっと終結をむかえたダム建設反対についてです。この出来事は、茨城県の旧那珂郡美和村と緒川村の村民の生活や利益を直接脅かすことになりました。
あなたは、田舎の共同体が知事らの無策さ、無能力さと戦う苦しみを描いている作家です。その戦いはほとんど馬鹿げていて、経済的に不公平で、精神的な疲労、トラウマをともないます。なにせ30年以上も「ムダに」続いた『幻のダムものがたり』です。
先住民、政府、NGO市民団体、環境保護論者、従来の研究者・教授、技術者、被移住者や民間部門の代表で協議される WCD
(World Commission on Dam) 世界ダム委員会の『ダムと開発:意思決定のための新しい枠組み』の2000年11月16日付けの文書で、世界銀行とIMF(国際通貨基金)によって事業が融資された世界中の45000の大型ダム建設に必要なキーポイント という調査を発表しています。
大型ダム計画(トルコ、ノルウェー、米国、ザンビア、ジンバブエ、タイ、パキスタン、ブラジル、南アフリカ、インド、中国、ロシア)も、世銀やIMFに融資されていないより小さい規模のダムも、日本の地方や公共融資のダムも、人に関する社会的課題、技術や経済評価において同じことが起こっているといえると思います。
同様に、経済的環境的カオスや、立ち退きを余儀なくされた住民の負う、不公正な強制による精神的侵害や、社会的援助不在による心理的トラウマが全く同じように存在するということです。
どちらにしても、行政側は住民の提示する問題に対して答えようとしません。しかしながら、政策と資金という二重の過程で長期間に及ぶという答えは見えています。それは人間の犠牲など計算に入れないいわゆる腐敗したプロセスです。
結局、不安定で排除され財産も失うような精神的な苦痛においての発展主義経済の結果は、大事業も小事業も同じであることがわかります。なぜなら洪水や雨水や河川氾濫対策のような市民の安全や水資源やエネルギー開発の名において構想されているのですから。
Q 1 小林さんは、約30年間緒川村の村議会議員をされていました。
議員とは小林さんにとってどのような意味がありましたか。
小林 議員になった時ちょうど30歳だったんですよ。1961年当時、緒川村に青年の若い人の組織がありまして、その会長をやってたんです。1960年頃に安保闘争というのがあって、いわゆる日本政府とアメリカ政府の軍事同盟ですね、安全保障の体制をとってね、条約が国会にでたでしょ。その反対運動。そういう反対運動を、我々こういう田舎でもやってたんですよ。そういう勢力に押されて、議員になったんです。だから地域の人に押されて出たわけじゃないんです。この地域から出た議員さんがもう一人いたんですけど、この狭い地区に二人も立候補したもんですから…。普通考えれば共倒れでしょ、だけど二人とも上がっちゃったんですよね。
それ以来私はずうっと議員をやってたわけなんです。自民党が強い保守的な村ですよね、でも政党は名乗らない。私は革新的な無所属だった。正確には28年間ですけど、最初、二人出た時、もう一人は大物だったんです、村の幹部で、二回目は落選してしまって、私だけが上がってしまって、革新的な運動と、地域の問題もやる、そんな風にやってきたんですよ。だから多少矛盾はあるよね。こういう保守的な地域の代表としての議員と、革新的な村内の勢力の代表として議会に出るって、ひとつの矛盾ですよ。(笑)
・ 矛盾というと、ネガティブな意味でですか。
― 議員ってのは、そういうのを調整しながらやっていくでしょ。だから調整はしてきたつもりなんだけれど、立場は革新的なものでずっとやってきたから。
・ 議員という職業とはどんなものですか…
― 議員という特別職は、毎日出勤するわけではない。議会のある時に役所から招集された時とか。定例議会というのは年に4回、1回に10日ぐらい。臨時議会や議会の中の常任委員会も出るということです。それで報酬をもらうということですよね。
Q 2 - a その役割(特別職公務)は、80年代からつづくネオリベラリスム
- 新自由主義 - による悪影響を受けていると思いますか。
小林 結局、政府の方で、80年代からデフレ傾向になりますよね。国から出る地方交付税とか。
・ はじめに議員をはじめられた時と、その20年後を比べて、変化はありましたか。
― そんなに変化はないですけど、村の財政は苦しくなった。だんだん。
・ 職務の質に影響しましたか。
― 議会に出て発言する場合、財政が苦しといって借金なんかするなって、それは私の主張ね。いわゆる健全財政にするために、執行部、村長の方が努力するべきだ、という意見は言いましたよね。
・ 財政を絞り込む時に、質の低下は…。
― あの当時緒川の議員は18名だったけど、お金を借りてもいいから大きく仕事をやれという議員と、健全財政を勧める議員がいたけれど、全体から見ると「借金をする」という方が多数派なんですよね。
・ 村と民営の銀行の関係は。
― ここでは村の指定銀行があるわけです。平成合併前は常陽銀行です。そこからお金を借りたり、もちろん村の金は預けます。茨城県で一番大きな地方銀行ですよね。
・ 産業開発に重きをおいた銀行ですね。どのような人が頭取だったのですか。
― そうです。県とのつながりも強い、茨城県の指定銀行。だから県内の市町村はほとんど常陽銀行との取引。 株式会社ですから。
その当時は大蔵省の銀行局長くらいをやった人が天下りで、青鹿さんだったかな。ま、大蔵省から派遣されるというか、天下りですね。
・ そのような人達は、政党に属してたりするわけですか。
― 銀行員ですからね、政党色とかはないでしょうけれど、基本的には開発指向というかね。銀行としては、当然でしょ、金を貸して、どんどん増やして戻して来るという。
・ 緒川村はどのような名目でお金を借りていましたか。合併後常陸大宮市は常陽銀行と取り引きを続けていますか。
― 建物が多かったですよね。あの総合センターあるでしょ。あの建物は18億円かかってるんですよね。そういうのは国からの起債いわゆる借金、3分の1の国からの補助、あと地方債っていう借金だね。手持ちはあまりない。
市になってから指定銀行は何行かに増えて、正確には記憶にないけれど、茨城銀行、農協もおそらく入ってると思う。
・ 農業関係のお金も常陽銀行は扱うのですか。農協銀行JAと常陽銀行はちがうタイプの…。
― 農業関係はやはり農協銀行がおおいでしょうね。金融という面では同じだけどね、やっぱり片方は株式会社。農協っていうのは農民が出資をして作った組合ですから。
・ 当時議員として銀行と交渉をしたりすることはありましたか。
― それはない、議員はない。村長とか、執行部ですよね。
・ 欧米の市町村のように、村として市場投資をしたりすることはありますか。フランスなんかだと、カリフォルニアの不動産関係の投資とかシカゴの牛肉市場とか…。
― 資産運用はやらない。資金の余裕もない、リスクが多過ぎるよね。外国では、やるんでしょうね。
- b 経費面でも犠牲面でも巨大な緒川ダム建設計画の意思決定が住民の意見を無視して進められるということはどのように説明できますか。
― 一つは、県会議員がこの地区に一人いたんです、三村さん。その方の考え方は、巨大事業をやって、この地域を開発させたいというのが基本にあるのね。2つ目は、政治家っていうのは、大きいお金が絡む、利権が絡む、政治家へのリベートみたいな、その期待はあったと思う。当然ね。
・ 三村議員はなぜ、住民に伺いをたてなかったのでしょう。
― それは、ここにダムを造りますよっていうのが決定するまで、建設省の許可が必要なわけだけど、その段階まで村民にはいっさい何もない…。
ここのダムは茨城県営のダムだけど、国から補助をもらわなきゃならないわけですよ。県が最初にやったのは、「ここにダムを造りたいから許可をしてください」という陳情を昭和40年のころに出した。それが許可になって、県の内部で色々検討、それが決まってから地元に発表。その時にはもう方向はきまってたんですよね。ただ、ダムっていうのは地元の協力を得ないとつくれないからね。それの説明会ですよね。
Q 3 - a 昭和31年(1956)から45年(1970)にかけて日本では都市部への大規模な集団移住・離村が見られます。そのような1967、68、69年当時に治水と利水のためのダムが必要とされるのは矛盾していませんか。
小林 洪水防止の治水の方は問題ないんですよ。利水の方は、その当時高度成長でどんどん経済が伸びてたでしょ。若い人がどんどん出てゆく。水戸を中心として、あそこへ100万都市をつくるという構想があった、東海村、水戸、日立、勝田… 合併前ですからね、その水源としてここを当てにしてたんですよ。
- b 1961年、農業基本法が制定される新しい政策の方向は、土地の再統合や開発など緒川村や美和村の農業機能へ影響をあたえましたか。
― これは、与えてますよね。農業基本法の考え方っていうのは、農村と都市の格差があったわけで、都市並みの生活にするために農業を上げてという基本的な考え方があったわけです。ひとつは畜産、養鶏とか乳牛とかそれを広める。あとは果樹、ここはみかんはだめだけど、ぶどうとかリンゴとかそういうのを広げて所得を上げるという狙いがあったんですよ。だからここも養鶏、鶏卵、とくに卵が増えたんです。土地の再統合は山間地帯だからあんまりなかったんだな。そういう意味で、農業の形が、今まで米とか麦とかが中心だったのが畜産に変わって来た。だから生産は伸びたんです。
・ この農業基本法は正解だったと。
― その当時、アンチテーゼじゃないけれど、農業の方からも意見はあったんです。この方法は大きな農家をつくるという目的があるよね。残りの6割の農民は切り捨てられてしまうという批判はしたんですよね。その後そうなっちゃったけどね。
・ 社会の不平等をつくってしまったということですか。
― 結局、農業では食えなくなる。小さい農家はね。だから外へ働きに行く。だから基本法ができてから、勤めながら農業をする兼業農家が増えたよね。勤めが本業になっちゃうんだよね。
・ 小林さんは、農家の中でも恵まれていたほうだとおもいますか。
― 私はこの地域では大きい方。全部で1.5ヘクタールで、一般の農業としては小さいけれど、この辺では大きい方なんですよ。でも、二本立てで生活が成り立っている。農業だけでは厳しかったと思うんだよね。
・ この基本法は、農業の機械化でもあるのですか。
― そうですよね。大型機械を入れて面積を広げるという考えがあったから。
- c 1962年の水資源開発促進法(利根川水系、淀川水系)は、日本に7つの水系を誕生させましたが、この促進法は緒川プロジェクトへの意思決定をさせる役を演じたでしょうか。
― ここのダムは水資源開発関係のダムではなかった。ただ県の役人の考えには、水資源を開発しなければならないという思いはあったと思う。構想だけだけど、水戸の100万都市に水を引くというね。
・ そうういう文化的時代的背景というのはあった。
― そうだね。ただ水資源開発公社のダムではなかったからね。
・ ということは緒川村長の考え方だったと。
― そう。村長は推進役だったからね。極めて積極的なね。(笑)
村長は、社会的には村の資産家っていうか、上の階級なんだけどね。前は八里の村長で、昭和の合併で緒川の村長になった。で、7期やったんですよ。考え方は自民党で、今、市の助役をやっている内田さんのお父さんです。元々出身は林業なんですよ。その当時は山持ってると食えたからね。今とは違う。山を持っていて、土地とか木を売っていた。
この促進法は水河川の中央集中行政的な管理政策に導きます。
・ 政府の本意はなんでしょうか。
― 国のやりたいことっていうのは、治水と利水、それは間違いないでしょうね。水資源開発でやるってのは。
・ 動機はなんでしょう。経済的動機とか。国民の安全とか…。
― 法律っていうのは、表の顔と裏の顔があると思うんですよね。利水、治水にしても、政治家が絡むでしょ。具体的にどこにつくるとか、こっちにもつくりたいこっちにもつくりたい、政治家が絡んで事業を進めてゆくわけですよね。穿った見方をするわけではないんだけど、政治家が絡むと土建業からの露骨なリベート取るとか、必ずこういうことが出てくるんですよね。ダム建設には汚職がつきもの、だけど表に出るのは少ない。
・ リベートというのは、違法…。ということは、ほとんどのダムが汚職事業…。
― そう。違法だね。役所の方で発注する大きい事業については、今問題になってる談合とか、汚職がつきものなんだよね。100万円の小さな事業でも、ほとんど談合ですから。業者が話し合って「今度はこの仕事おまえがやれ」とか決めちゃうんです。それ、談合なんですよ。だから必ずつきますね。
・ 発注するときに、誰か監査しないのですか。
― その1つの仕事を発注する、例えばここは指名競争入札なんです。事業に参加できる業者を、法的に決まっているのだけれど、会社を5つかな、指名してその中で入札するわけ。だから旧緒川村でも何社かある会社を指名してその中で決めるわけ。だから談合できる余地はあるわけよ。5−6人なら話し合って「今度はオレにやらせろ、この次はおまえに回す」という取引だね。それは必ずありますね。
Q 4 当時、洪水による治水としてこの緒川ダム事業は正当なものだと思えましたか。
小林 まあ、正当ではなかったですね。おかしいよね。(笑)皆そう思ったよ。
ただね、ダムを造っただけでは洪水は防止できないんですよね。皮肉なことに、昭和40年にここにダムを造ることになったでしょ、でもそれ以来ダムがなくてもあまり洪水は起きなかったんですよ。
日本の農業人口の1947年の指数が16.6から1980年の指数は5.5になっています。産業人口は5.4だったのが13に、サービス業人口は4.3から10.3になりました。
他には、居住(宅地)面積は全国土の7%から10%に、灌漑可能面積は14%以下に留まっています。
Q 5 産業ダムの誕生の歴史的コンテキストを話してくださいますか。
小林 ここにつくろうとしたダムは治水利水の多目的ダムで、農業の灌漑用水にも利用しようという計画もあった。もう一つの御前山ダムは、全部利水のダムで、下流の農地用の灌漑用水専門。緒川ダムは県のダムで建設省、御前山のダムは農林水産省なんですよ。だから緒川のダムは産業とはいえないの。一部を農水に利用するってのはあったけど。
・ 日本の歴史的な背景は…
― ダムの基本というのは、利水と治水ですよね。利水の方は農業用水と生活用水と工業用水のダムがあるでしょ。だから産業ダムというのは、60年代ころ日本が高度成長でどんどん大きくなって、水の使用量もどんどん多くなる。それに従って、工業用水を確保する…という方向には行ってたんですよね。
・ その傾向とはアメリカの影響を受けているのでしょうか。
― アメリカの影響はないでしょうね。むしろ国内事情ではないでしょうか。工業用水が必要になって、県の方で確保するんですよね。工業用水と生活用水っていうのは、計算して確保できるんです。今は県の工業用水は余っているんです。生活用水もほとんど余っているくらい。もう満杯なんだよ。いらないくらい。そういう経過があるんですよ。
・ 建設中の旧御前山村(現常陸大宮市)のダムの農業用水用というのは、必要だったからですよね。
― あれもいろいろあってね。利水を受ける下流の農民からお金をとって維持するっていう。利水金は、水道と同じで、下の農家の中には「あんなものはいらねえ」っていう人はいるみたいですよ。
・ 日本にダムができて水道料金は上がりましたか。
― 例えば水道料の原価、値段は、ダムをつくった費用から計算する。緒川地区は今、ダムはありませんが、緒川から伏流水を利用した水道なんですよね。川が流れてて、横に井戸を掘ってそれを消毒してるんです。だから結構安いでしょ。
・ 水の値段は市町村によって違うと思うんですけど、競争市場ではないんですよね。
― 合併して常陸大宮市になってるけど今のところはばらばらなんです。市としてはそれを統一するという考えはあるんじゃないかな。水道は自動的に引かれるわけだから、競争市場ではないね。強制的でしょ。水を選択できない。大宮地区の水が安いからといってそれを持ってくるわけにはいかないでしょ。
・ 他の町から運んで持って来るとか。温泉の水みたいに。
― ここの水は特別健康に良いということがあれば、わざわざ買いに来るかもしれない。この水飲めば頭がよくなるとか証明できればね。
この30年で、地方経済の低下と、昨日までマイクロ・クレジット銀行(小型融資の信用金庫)や鉄道、郵便局
利用客の減った駅の廃止や郵便局の閉鎖、そしてその民営化を今迫られていますが ― に支えられていた家族間交流や地方中小企業の減少を見ることができます。
天災に遭った都会の住民や農村部の住民の必要に応えるとでもいわんばかりに、法律、政令、改正、地方分権などの国民の安全対策のインフレーションに立ち会うことになります。
Q 6 “天災効果”にかこつけたこれらの法律は、(カテゴリー別に2620〜3000のプロジェクト、350事業進行中)ダム産業にとって天の恵みのようなもので、昔から公共事業を請け負う企業との癒着で知られる政党、与党自民党のクライアント主義を保障するようなものではないですか。
それに関連して60年代くらいから、国民安全対策に関わる法律、法令がたくさんできました。
小林 緒川ダム計画と「天災効果」とはあまり関係ないかな。
日本の他県ではあると思うんですけど、茨城県というのは非常に災害が少ない県なんですよね。だから政府がつくった災害救助法とかいろいろあるけれど、最近はここでは発動されていない。ないんだから、災害が。
ダム建設に直接関わることではなくて、日本経済が地盤沈下して地方と都市部の格差が広がれば、地方に公共事業を持って行って経済再生を計るっていう案は自民党からはでてくるでしょうね。今、自民党は騒いでますよね。地方のレベルを上げるってことは、地方にお金をつぎ込むことですから、当然そこには公共事業とかもってくるのが一番てっとり早いわけですよね。自民党的考えですけどね。
・ 国民安全対策、特に農村部に関して、人口が減っているのに、法律や政令が増え、事業が増えるというのは矛盾していませんか。
― 矛盾してるよね。経済的に地盤沈下した地域に、大きい事業を持って来るという。そうすると、そこにはあまり人はいない。結局無駄になるわけよね。私はおそらく経済効果はないと思うんだ。
・ ということはそのような事業を持って来ることは、言い訳で、正当な理由ではない。
― 結局、地方の経済力が衰えて地盤沈下しているという。質問から外れるかもしれないけど、農業が衰退しているということ。林業も経済的に落ち込んでほとんど収入がない。だから住民に入る収入がないんですよ。だから若い人は東京とかに出て、残るのはじいちゃん、ばあちゃんになっちゃう。過疎化して老齢化していく。若い人が残らないから子供も生まれない、少子化してゆく。だからそういう安全策の公共事業を持って来ても、やっぱり地方の経済力を上げないとあんまし意味がないんだよね。
明らかなのは、経営管理と地域共同体の経済的自立や、知事らの技術的知識、人道的倫理の要請など、普通ならば公共の仕事が負わなければならないことが日本経済の無制御さに適さないということが、投資の利率や産業の潜在力であるということを、2006年に茨城県をはじめ他のほとんどの県が認めています。
Q 7 - a このような報告にどのような批判を示唆できますか。
小林 ちょっと外れますが、地方の経済力をアップさせるという一つの例でいうと、昔、石炭産業があった茨城県と福島県。ま、福島県に常磐炭坑ってのがあったんですよね。いわき市は観光事業に力を入れて、あそこは湯本の温泉がでるから、ハワイアンのスパセンターっていうのつくって娘さんに踊らせて、あそこは成功してるんですよ。そういう地域の特性を生かしてアップを図る。悪い例で申し訳ないけれど、もう一つは北海道の夕張、あそこも優秀な石炭が出たんです。市の方で観光事業をやろうってんで、石炭記念館とかレジャー施設をいっぱいつくったでしょ。それが結局お客さんが来なくて、借金が重なって破産したんですよ。結局今は国で管理するようになったんです。知事さんが考えてる公共の事業、結局、知事さんの知識とか能力によるんですよ。どういう風な方向で持って行くか、投資支援できるのか…とか。
・ 資本主義的な考え方は、そういう公共事業健全財政に適しているのでしょうか。
― 合わないですね。結局、新自由主義っていうのは経済効率主義でしょうね。お金が儲かるところ、お金が入るところに、人もお金もつぎ込むというかたちでしょ。例えば小泉(前首相)さんがやった5年間の政策で、地方は非常に格差ができちゃったでしょう。お金にならないところは切り捨てる、郵政民営化だってそうだからね。
・ 小泉首相の政策は、地方社会の不平等を広げてしまったと思いますか。緒川村にもその政策が反映していると思いますか。
― 東京とは比べ物にならないけどね、いわゆる過疎高齢化と少子化という…悪くなっているでしょうね。経済合理主義というのは、どうしても農村部には合わない。工業部はいいかもしれないけれど。それを本来は調整してゆくのが政治なんだけど、今のように“強いものは残し、弱いものはうっちゃっとけ”では、良くならない。今の政治に対する基本的な批判ではあるんだけど。
・ 小林さんが議員だった時、すでにそういう傾向にあったと思うんですけど、それにストップをかけるようなことは、議員として意見するとか。
― 地方を活性化するために商工業の発展!とか、特産物!…とか口では自由に言っていたけれど、現実にはそうは動かない。言ってもなかなかお金がないとか、動かないとかあるから…。
・ 30年前と今では、議員として活動する難しさは変わりましたか。
― 昔は、いわゆる与党的な議員と野党的な議員が大体勢力が半々だったんですよ。私は革新的な立場だったけど、保守的な議員の中でも、村長派と反村長派あった。今の議会を外から見てると、全部「長」の方につく人が多い。今社会党っていうのはなくなってしまったんだけど、野党といえるのは共産党。そのくらいなんだな。だから議会っていうのは、長があって議会があるでしょ。そのバランスがとれないと政治っていうのはうまく行かない。今は長が強くって、議会が地盤沈下してるからバランスが崩れてると思うんですよ。
– 2 –
1967年、小林さんは36歳です。まだ若い特別地方公務員(選挙で選ばれる公務員、村長が任命する公務員―教育委員会とか/区長とか)で、あまり政治色はないと思います。そんな中で68haの田畑山林と132戸の家屋(70水没、道路関係62壊屋)が飲み込まれるというダム事業を目の当たりにします。
Q 8 小林さんの最初のリアクションは、心理的にどんなものでしたか。
小林 政治色のない議員ってのはいないでしょうね。政党に所属してないってことだね。反体制派です。
最初はこの数字程規模は大きくなかったんですよ。最終的には600万トンの貯水のダムになりましたけど、最初は300万トンだったんです。ここの人全部が反対した。旧美和村も。
ショックを受けた…というよりも、地質とか技術面で考えると無理なんですよ。地質的なことでいうと、右岸と左岸があって、右の部分の山が薄いんですよ。ダムで止めると、右側がぶん抜けちゃう。決壊する心配があるってことです。もう一つは、ダムっていうのは谷間が深いところにつくるんですけど、ここはお皿になってるんです。渓谷じゃなくて水を貯めてもたくさんは貯まらないという特徴があったんです。だから、こんなところにダムつくっても無理だろう無駄だろうってね。
- b ダムの地理、技術的な特徴やその機能など教えてください。
― 緒川村の一部の本郷と美和村の一部ですね。ダムの堰堤は緒川地区にできる。緒川でも何軒か沈むところもあるけど、大部分は美和村が沈む。というわけで特に美和の反対が強かった。最初計画が発表されたときは、ま、災難みたいに受け取ったかな。地元ではそういう希望は全然なかったのに、上から降ってきたっていうか。一種の災難だよね。
・ 天災の天は”お上”で、相手方は村行政、県、国であるという意識がありましたか。
― それはありましたよね。戦う相手は大きいという意識はありました。ただね、ダムというのは最初に予備調査というのをやるんですけど、予備調査に入らせないという反対があったので、県の方でも10年間は調査できなかったんです。その間、県知事とも話し合ったりして、知事は「地元が反対ならばつくりません」という明言はしていたんですよね。当時岩上さんはそう言ってたんですね。だけどやっぱし…政治家ってのは難しいんでしょうね。(笑)自分の主張を通せないっていうか、地元の人に約束したことを守れないっていう…。政治家の弱さだね。
・ ダムの大きさは。
― 高さ36メートル、310メートル幅。310メートルになったのはさっき言ったようにダムが浅いせいだね。コンクリートの量が112000立方メートル。これが最終的な設計で、ダムとしては小さい。
- c 反対運動のオーガナイズにあたって主にどのような段階をふまれましたか。
― 緒川村も反対、美和村も反対、結局一緒にやろうということで連絡取ったんですけど、組織としては、こっちは「緒川村ダム対策協議会」むこうは「ダム反対期成同盟会」という形で最初発足したんだ。関係者は全部組織の中に入ったから。こっちは私が会長やって、美和村は村長をやっていた相田さんという、65−6歳ぐらいだったかな。その人が会長をやったんですよ。それで、一番気をつけたのは、全員をまとめて組織に入るということと、あの当時は成田(空港)の問題もあって、あんなの見ていると、外部からの援助、それをお断りした。シャットアウトした。成田は過激派がね反対運動の中に入ってきた。それと、社会党や共産党、自民党はこれは賛成派だからね、問題外としても、ここでは純粋に地元だけでやってゆこうという考え方だった。
・ 村民だけ。
― そう。地元の関係者だけで、協議をして反対して進めるということ。
・ 社会党、共産党の人達は来なかったのですか。
― 調査はしていたようです。でも公式に応援しますよっていうのはなかったですね。
・ 外部の力を拒否されたのは、恐怖を感じていたからですか。
― 恐怖はないけれど、外部から来る人は頭いいじゃないですか(笑)、外部から来る人はプロですからね。ああいう反対運動、革マル派だとか、共産同盟青年なんとかだとかいわゆる過激派、彼らは頭良いし運動のプロですから、こういう純朴な農民の中に入ってきたら、我々地元の組織が潰されちゃうんですよ。引きずられて、だめになっちゃう。過激派学生からの援助申し出もなかったですけどね。
・ 地方議員とかでは。
― 私個人では、那珂郡の方に社会党の県会議員の知り合いがありましたけど、それは協議会の中に持ち込まないという考えでした。その辺はすっきり割り切ってやってたんです。
・ 他のダム反対運動をやっている住民とか農民の団体とかは。
― それもなかったです。
緒川村村長は、このプロジェクトが家庭や家族を危険に貶めている結果をもたらしていることに関して、村民に意見を求めたりしていません。
Q 9 - a 小林さんは村会議員でしたが、政治活動(政治色)を伴うまたは伴わない公務員の無力さについて、どのように説明されますか。
小林 一つの事業を県なり村なりが進める場合、議会の立場はそれに対する反対か賛成の意思表示をしなければならないでしょ。議会は当時18名だったけれど、村長を支持するほうが多いんですよ。採決しても議長は抜けて15対2くらいで、村長の提案が可決されますから特にダム問題を抱えた地方の議員の力としては弱いなという感じはしますね。だから議会の中の少数派っていうのはなかなか力を発揮できないという無力感ってのはありましたね。
- b 情報提供や意見協議の義務を欠いたことは違法行為で、村長としての任務は果たされていないと認識されますか。
― 民主主義の建前からいえば非常にまずいことなんですよね。長が意見を聞かない、十分協議しないということはね。
・ 住民を危機に陥れることが想像されるのに、意見も聞かず交渉もしないという観点から訴えることができたのでは。違法という意味ではどうでしょうか。不備とか…。
― 違法とまではいえないと思うんだけど、村長とか市長、知事も独裁的な面があるんですよ。今騒がれている談合の汚職もそうだけど、独裁的な傾向があるからあういうことができるんですよ。長っていうのは、権力が非常に強いからね。
- c なぜ、プロジェクトを中止させるために、形式上の不備を法的に訴えなかったのですか。
― ここのダムは県の仕事なんですよね。承認する県議会には、ここ緒川村と美和村で何回も請願書を出してます。
・ 不備という面に置いて、法的に訴えるというのは可能だったと思いますか。
― 合法的な手段としては、県議会に対する反対請願、村長に対する反対陳情はやってます。ま、村長は全然受け付けなかったですよ。県議会のほうでは、請願が出たというので、自民党が多数なんだけれど、その当時社会党も健在だった。かなり意見の対立もあって、社会党が請願を取り上げたりしましたよ。
・ 例えば長良川ダムの反対派のおかげで、反対住民と建設主が側のダイアログ(対話)の義務が課せられるようになったと思いますが。
― 長良川河口堰の反対運動の場合は、環境的に清い川を守ろうという傾向が全国的に広がったんです。関係者だけじゃなくて市民運動として広がったために力が大きくなったんですよ。ここのダムに関しては、我々は何回も請願書を出して県の職員は何回も話し合いには来ました。反対請願出してた間は、職員は地元には入れなかった。反対してたわけだからね。話し合いはあった。話し合いといっても、県が説明に来る、地元は反対…いつも決裂でおわる。その間、請願書を県側は検討してるでしょ、で、却下っていうか不採択。県の方では認めませんよっていう。ま、8割は自民党で占められている議会だから、こっちの請願は通らないわけです。
長良川河口堰建設をやめさせる市民会議
- d 憲法十三条「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」を侵している、と法的に戦うことができたのでは。
― 県側は地元に説明に来る、反対派はダメ、ということで決裂。で一時停止の仮処分を求めて裁判所に出すっていう。でもそこまでは考えなかった。
・ 裁判で訴えることが可能だった判例として、2001年5月に熊本地裁がハンセン病国賠訴訟で、強制隔離政策らい予防法によって幸福追求の権利が奪われたことに対する国家賠償で原告勝訴の判決がくだったことです。
― これは私の考えですけれども、ハンセン病の訴訟とダムの訴訟では性格が違うと思うんですよね。ハンセン病の場合は、国が犯罪を犯したわけですから。強制隔離などへの損害賠償とか…。ダムの問題というのは、県の方で出された方針に対して、イエスかノーしかない。だから裁判に訴えても勝ち目はなかったでしょうね。
・ 住民の苦悩が30年近く続いたという出来事、自由幸福追求の権利をまさしく侵しているのだから、訴訟も可能だったのでは
― 30年続いて、ダム計画は中止になったでしょ。その時に補償問題で裁判やろうっていう話はありましたよ。ま、この時点では請願しているわけだから、裁判まではいってない。
・ 中止の後、裁判をやるというのは、どういう名目で。
― 30年続いた精神的な苦痛に対する補償。後は、色んな事業をやりたくてもできなかったという経済的な損失。そういうものに対して補償をしろ…それがここの一般的な意見だったから。それを裁判やって勝てるかどうか、私は水戸の弁護士のところに行って相談したんですよ。そうしたら「ちょっと難しいだろうな」という意見だった。社会党系の人権派の弁護士なんだけど、茨城県内にはこのような問題を扱う能力がある弁護士はいませんよって。やるのなら東京の弁護団を呼んで、というなら可能性はあったかもしれない。
・ 後世のために、こういった問題、不正がきちんと裁かれる、ということは大事だと思いませんか。たとえ敗訴するとしても。
― それは大事だと思う。ただね、裁判ってのはお金もかかるじゃないですか(笑)。それを周りの農家の方が負担できるかどうかという問題もあるんです。純粋に我々は苦痛に対して補償を要求したいから、弁護士に相談すると「今、そのような法律はない」というんですよね。公共事業が中止になった場合、国や県が補償するような法律がね。ハンセン病の場合も、そういった法律はなかったけれど、あれは勝つ見通しがあったからな。あれだけひどいことをされたんだからさ。それとはちょっと違う。
- e 小林さんは、非暴力手段で戦うことを選ばれると思いますが、非暴力的な運動はあなたにとって何を意味しますか
― ダム反対の場合、警察とぶつかった時に暴力を使うことがあるけれど、暴力行使は良い解決法ではありません。民主主義なんだから、合法的に解決できればいいですよね。
Q 10 茨城県内に現在ダム建設反対運動が存在しますか。
小林 今はない。御前山ダム(常陸大宮市)が建設中ですけれども、あそこは地権者の問題がないので反対運動は起こらなかった。利水のほうで、反対意見が出ているようです。
緒川右岸のささの湯温泉
– 3 –
昭和47−48年(1971−72)、緒川と美和で第二期反対運動の波が再燃します。“民主主義と私有財産が結合する時代”です。各自、己の財産を奪われないように祈ります。そしてもちろん期待通りにはゆきません。一方、期日も守らなければ首尾一貫した方針も出せない討議もできない、技術の知識もないのに横柄な世界と、公正な保障の権利を奪い取られ蔑まされすっかり調子を狂わされた田舎の個人的な世界が現れます。
Q 11 建設プロジェクト以前、住民(農民)たちは生活になに事欠かない暮らしでしたか。例えば借金をしているとか貧窮であったとか。
小林 そんなにお金はなかったけれど、食うに困る状態でもなかったね。
女性は畑仕事してましたね。男性と一緒に。畑やって家のことやって、子供の面倒見てた。
男性は、小規模農家は工場とか土建関係で働く人が多かった。
・ 一般的に家庭にはたくさん子供がいましたか。
― 6、7人とかいましたね。
・ 小林さんは兄弟はたくさんいますか
― 6人兄弟姉妹。私は一番上なので大変でした。
・ 農業は何をつくっていましたか。
― 干し椎茸。家は大きな農家じゃないから年に3トンくらい。埼玉に干し椎茸市場があって卸に行くんです。数回1500万円稼いだ年がありました。その他では、米とか野菜とか。食うには困らなかったし、質素だけれどお金にも困らなかった。本当は大学に行きたかったけど、長男だから農業を継がざるを得なかった。でも無理すれば行けたのかな。
・ 長子優遇制はその時代まだ存在しましたか。
― ありました。二男、三男は出なければいけないというね。
・ 小林さんはお子さんはいらっしゃいますか。
― 三人。一人は茨大行ってエンジニアです。もう一人は教師…。皆、独立しています。盆と正月には会うけれど、自立して自由にやっている。これが理想的な形です。
・ この長子優遇は核家族や過疎などの影響がありましたか。
― 直接はない。我々は、一つの屋根の下に何世代かが一緒に住んでいるという大家族のようなもので、村組織はピラミッド型のような古い制度です。
・ 国体とか。
― そう。
日本のエネルギー政策は、1973年キプール戦争(第四次中東戦争)後、最初のオイルショックで変化します。田中角栄の腐敗の時代です。二回目のオイルショックは(1978年イラン革命/1980年イランイラク戦争)日本の国家主義的、帝国主義的、産業的価値に国が集結しました。
結局、原子力や水力発電に強い頼ることが、一つの効果的な立法の仕掛けと権力のサークルの中で、精神的な攻勢力を養うことになるのです。
国の都市開発や水源河川開発、産業に関する交渉の中で、政治的商業的行政的に司る県政とあなた方の関係に障害があった理由の一つは、新しいエネルギー策への方向性であったと考えられませんか。
Q 12 この本の中で、利水の利用者がいないという不思議なことが書かれていますが、どういうことなのでしょうか。
小林 この基本協定書というのは、ダムを造るときに、いくら水をもらうとか…、県とそれを利用する自治体の間で協定する。その協定をつくる時にはまだその水をどういう風に配分したら良いかというのは決まってなかったんですよね。その当時は茨城県を六つに分けて水道基本構想計画っていうのをつくって、そのなかの中央水道、水戸周辺の水道に利用する…これは後から決まるんだね。その水源の一つが緒川ダムだっていうことだったんです。でも水は必要なかったはずです。
・ ということは100万都市構想にまつわる計画だったということで、後にも先にも誰も水が欲しいといわなかった。
― そうそう。その当時も、水は余っていたんですよね。ただ、利水の協定書をつくらなければ、厚生省から許可が下りないというわけだね。こういうふうにかなり無理して水道計画をつくるわけです。
- b どのような方法で、政府(公共)の建設計画を制御することができるのでしょう。
― ひとつは反対することと計画の杜撰(ずさん)さを指摘すること。
・ 国の法律として、建設法、公共事業に関する法律をみなおすということも大事ですか。
― その頃、県の予備調査を認めるということになって、結局条件闘争に入るわけだ。 県の人が調査に入っても良いという許可を出すことになるわけ。その前に地元の将来や生活上の不安があるから、県はそういうことをどういう風に考えているんだ、という要望書は県の方に出してあるんです。それに対して、県の方では回答して、それを地元で検討して、じゃやってみるかという風に許可を出した。
・ 長良川の反対組織がいうには、日本の法律というレベルで、公共事業を管理できることが大事だと。彼らは、法律のテキストを変えるということにまで至っていると思います。
― 結局その頃、運動が非常に難しくなってきた。ひとつは美和村の水没予定者の団体が分裂する。いわゆる、絶対反対の人と条件闘争の人に分裂する。そうするとこっちもその影響を受けるわけよね。こちらの内部でも絶対反対派と条件派と。分裂させないためには、ある程度県の出方を見てやっていこうということになっていったわけだね。そのへんは、今言えばちょっと反省点なんだけどね。難しい判断だよね。その時に、緒川村の村長選挙があって、片やダム推進、片方はダム反対の候補っていう事で選挙戦。それで、ダム反対派の候補が負ける。私はこのダムのことで色々経過を追っているけれど、見方としてはだいだい半分に割れている。だからそのまま進めば分裂するでしょ。それをどうするかという難問題が出てきた。分裂するか妥協して一緒にやっていくか… 私はもちろん反対の方の応援を一生懸命やってた。
- c 公共建設義業や水関係のロビー組織、活動についてはどうですか。彼らは何者ですか。それは犯罪組織網と関係があるでしょうか。
― 政治的な力関係で、県事業を中心とした県議会の土建業関係、そういう人が主導権を取るわけですよね。公共事業を進める組織とか、活動をするのは県知事を中心とした土建業関係の県議員、ま、ほとんどが自民党なんですけど。犯罪組織網と関係があるかというと、これはないんですよね。
・ 世界の土建屋のほとんどが犯罪組織と関係しているといえますが、日本はちがうと。
― 公にはないですね。
・ 表面的にはない… と。
― ない。ノー。
・ 反対に犯罪組織が関連する職業とか企業の特徴ってのはありますか。
― それは、あると思います。例えば風俗関係と暴力団。結局暴力団ってのは、風俗関係のお金を吸い上げますから。
– 4 –
村や県の行政が10年間抑止状態に入り、反対運動も事業採択の1988年(昭和63年)まで20年、最終休止−中止決定の下る2001年まで33年続けられます。
苦々しい気持ちで、この長い月日の間に人間も社会も変わって行く… と書かれています。生活は混乱状態です。権力や支配、開発至上主義的に終結させることが難しくなって行きます。権利主張、解決策「スズメの涙程の」賠償問題に取り組んでいる間、県庁水戸には巨大な県庁舎が880億円(7億3300万ユーロ)をかけて建設されます。県の負債は、年間予算に等しく、1兆円という例を見ない額にまで及びます。(平成8年1996年)
怒り、言い争い、諦め、疲労が人々に広がってゆきます。「人も社会も変わった」…永過ぎたストライキ、不平等な争いのように、動きは鈍ります。
ある時はダムが“いる”、ある時は“いらない”という県側。技術面の不備、まとまりのないオーガニゼーション、守られない約束、策略、堪え難い待ちぼうけが悪夢となってよみがえります。お上の罪で下劣な沈黙の悪夢、調査、会議、ミーティング、決議、決算、無駄使い… 実に30億円が計画調査などに乱費されました。
組織力と村の団結はもう限界です。小林さんは「緒川にはもう土地も生活も仕事も自然もなくなってしまった。どうしたらこのような災難の犠牲者になれるものだろうか」と言います。
小林さんは、お会いになった知事、…岩上知事はおかしい …橋本知事にはあきれてしまう …“権力は腐敗する”と書かれています。中でも田中角栄のブレインで参議院議員を経て茨城県知事になった竹内知事は、ロッキード事件関連、土建ロビー会社、十王ダム関連の汚職、そして後に贈賄容疑で逮捕されました。I県会議長の議長選挙贈収賄事件(茨城県議会黒い霧事件)もありました。
Q 13 - a
この時期の知事らの心理的傾向・特徴とはなんでしょうか。
小林 知事の心の中まではわからないけれど、知事っていうのは利権というのか、大きい公共事業を発注する中心にいるわけだから。竹内さんの時代は、土建政治型の県政運営を進めてきたので、竹内さんとゼネコンいわゆる大手建設業者との癒着、結びつきが非常に強くなったんだね。県知事の権力ってのは非常に強いんですよね。それを18年もやってたんだから。予算を提案する権利、それに人事権がある。だから知事に反対する人は左遷させるとか、役職をはずすとかやるわけですよ。だから権力が集中して業者との結びつきが強くなる。そこからお金を吸い上げる。そういうシステムになっちゃったんだね。
だから心理的な傾向とかではなくて、竹内さん個人の資質があるでしょ。お金をどんどん集めて。ものすごかったらしい… 現金で、どっかへ隠すとかね。ものすごいですよ。(笑)市町村でもトップは権限があるから、一国の主みたいなもんですね。
竹内さんの汚職・収賄容疑っていうのは、具体的には県庁舎を建てることに関して、表に出ていることだけで、清水建設から一千万円、県庁と小山ダムに絡んで鹿島組から二千万円、下水道工事に絡んで飛島建設から一千万円… ハザマ、が竹内知事の収賄4ルートといって、ここからお金が流れていったわけ、個人的に。竹内さんは汚職の心配はしていた。汚職っていうのは表に出なければいいんだからね。それを隠すために友達に一億円預けたり、東京の料亭を経営する女性に6億円を隠すように頼んである。これは東京地検で押収されたからわかってますけど、まさにこういうことなんですよ。国税局の調査で4億所得隠しとか。大体そういうことです、知事っていうのはね。
・ 知事というのは、そういうような性格の人が多いのですか。
― 皆がそういうわけではないです。宮城県の汚職事件の後なった知事の浅野さん。この方は清潔で中央自治関係では、色々意見を発表しているようですけどね。
・ 茨城だから竹内さんのような事件がでた…という特徴とかありますか。
― 茨城県だけではないけれど、茨城はそういう傾向は強かったよね。当時も宮城県、福島県の木村知事も捕まっているし。今もたくさん捕まっているじゃないですか。だからシステムみたいのがあるんですよね。システムとその人柄。県知事は、お金を儲けようと思えば、法律の裏をかいて、談合させて…色んな方法があるわけよね。今盛んに報道されてますけどね。だから最終的には人間の性格の問題。そしてお金を動かす権限を持っているわけでしょ。結局県知事のハンコがないとお金が動かないから。
- b 汚職知事たちはその後どうなりましたか。
― お金を受け取った方と渡した方と別々に裁判になったんだけど、ゼネコンの方は全部有罪、竹内さんは無罪を主張してた。ずうずうしいよね。(笑)竹内さんは、無罪を主張してたので裁判が長くなって、終わらないうちに病気になって亡くなってしまった。岩上さんは(逮捕は)なかったし、橋本さんは… まだわからない。I県会議長は、地元の方なんだけど、一審で有罪、二審で有罪、最高裁で有罪が確定するまでに12年かかった。最後の方は身体をこわしてしまって八王子の医療刑務所に入って、茨城中央病院で亡くなった、収監されたままでね、出所しないで。
・ 悲しい最期でしたね。
― まあ、最後は悪いね。権力者の最後はね…。
- c その知事の中で政党に属していたり、宗教団体のメンバーだった人はいますか。
― 竹内さんは自民党、その前の岩上さんは最初は社会党共産党の革新勢力から推されて知事になったんですけれど、自民党が圧倒的多数を占める県議会で動きがとれないという理由で、自民党に鞍替えをするんですよ。4期のうち2期目からは自民党推薦だな。彼はキリスト教徒ですね。
・ 少し外れますが、この間の常陸大宮の市議会選挙で、公明党から2名議員に選ばれました。公明党イコール創価学会といってよいと思うんですけど。どうですか。
― 公明党=創価学会。いわゆる宗教団体なんですよね。宗教団体っていうのは、自分の信じている宗教に対して絶対的だから、票が非常に固くて動かない。
・ 常陸大宮市に票の分だけ学会のメンバーがいるということですか。
― 皆がそうではないかもしれないけれど、非常に固い票を集める組織がしっかりしているということだろうね。そういう意味では共産党も固いんだけどね。共産党は創価学会みたいには票取れないからね。
・ この創価学会の勝利についてどんな分析ができますか。
― 私はあまり良いことじゃないと思う。日本は政治と宗教は別という大原則があるでしょう。選挙だからどうすることもできないんだけど、宗教で投票する、これは良いことじゃない。
・ 75名いた議員を(合併によって)26名に減らすということでしたよね。合併前の議員構成の中に公明党がすでにいましたか。
― 前は1名いました。共産党は村々に一名ずついたから4人いました。
・ 常陸大宮市の選挙で、今回公明党が上位を占めてますけれど、公明党に投票する人達とは、お金を持った階級の人達ですか、それとも…。
― 公明党・創価学会の支持層を見ると、貧困者が多いんですよね。病気やハンデを持っている人とか。そういう人達を狙って、これに入れば病気は治りますよ、子供は立派になりますよと言って勧誘するわけですよ。
・ 市議会選挙のとき、東京辺りから学会の有名人とか後援に来たんでしょうかね。
― 東京からはどうかわからないけど、水戸辺りから幹部の人が来たかもしれないですね。脱線するかもしれないけれど、創価学会っていうのは一神教みたいなもんなんですよ。日蓮正宗(日蓮正宗(宗門)より破門)と法華経というそれが唯一の信仰対象で、他の神とか宗教とかは全部邪教として排斥している。だから学会の信者で他の政党を支持するなんて絶対あり得ない。それやるとバチが当たるってことになるから。客観的にはわからないけれど、本人達はそう思ってるからね。
- e 自民党(戦後ほとんどの時期与党として君臨する自由主義の親米政党)はそれらに関わりがありますか。
― 自民党が汚職を奨励するということではないけれど、体質的なものがあるんでしょうね。財界から金を集めて選挙やる時とか。金を集める能力がありますよね。今は色んな法律で政治資金というのは規制されているけれども、それの裏をかいて集めるからね。そういうところに汚職が発生する原因があると思う。
- f 県の腐敗(贈収賄・汚職)事業では、どんなロビーや私益が姿を見せますか。
― 談合ですよね。表に出ないように内緒でやるわけでしょ。よほどのへまをしなければ表に出ない。一番多いのは、談合に関わった業者の内部通報。業者が口にチャック結んで黙ってれば絶対発覚しませんから。
内部紛争みたいなかたちで、ちょっと不満があるからとか、業者の内部社員とかが反乱を起こせば外に漏れる。情報が入れば警察の方で手を入れざるを得ないから。茨城県の場合はほとんど外へでないんです。マフィアみたいなもんで、暴力はないけれどね。自分の生活を守るために口を固く結んでいるだけで。
- g 政府は絡んでいますか。
― これは、微妙なんだな。んん、絡んでるか?(笑)建設省(現国交省)あたりが発注する仕事、何百億円とか何千億円とかっていう事業もあるしね。防衛庁(現防衛省)なんかもこないだ発覚したしね、まるっきり絡んでないということはいえないと思う。
- h この黒い時期は、村の行政の仕事や社会組織や法制(決まり事)や人々になにか変化をもたらしましたか。
― 汚職が発覚すると、行政の姿勢が一時正される。怯えと反省というか、一時的にピシッとすることはありますよね。
・ 議員としてがっかりしたとか、やる気をなくしたとか…。
― ダムのことで皆一生懸命やってるのに、知事さんの汚職が出たのでやる気をなくしたということはありましたけど、皆続けてくれた。
- i 都市部より農村部のほうが地方自立(独立)主義の意志が強いといいますが、どう思いますか。
― 行政ではそうでしょうね。独立してやってゆくというのでは農村部の方が強いんじゃないでしょうか。
・ 地方自立独立主義にかんしてはどう思いますか。
― どうだろうね。もう合併しちゃったからな。ただ合併は町村で独立してやってゆこうという意思表示だとは思うんだがな。だけど前の緒川村だけでは自立できなかったわけよね。合併せざるを得ないわけだから。
・ 個人的に合併は賛成でしたか。
― 私は村の説明会の時に発言したんですけれど、合併というのは結局合理化なんですよね。財政的に苦しい面もあるけれど、合併して大きくして人員を減らすとか仕事の量を減らすととか、あるいは税金の負担をあげるとかなので、私は反対したんだ。
支離滅裂で長引くダム反対闘争に、結局、建設協定に調印しますが、美和村では反対が続きます。
Q 14 - a この断念を今日どのように思われますか。
小林 予備調査を終わった段階で、実施設計、国の補助金をもらって設計をするんだけれど、住民の方が県の調査によって追いつめられる、賛成の方に向くような方向になってくるような動きだね。昭和51年に調査を認めて10年かかって予備調査が終わって実施設計に入る。県の方では、戸別訪問によって住民の意向を調査するわけです。その調査では、反対が減ってダム推進の人が増えて来るわけですよ。県と水道を利用する基本協定書が調印されて、建設省の方では緒川ダムを正式に採択するわけ。だから後戻りできないように住民も追いつめられてしまう。その辺は、住民運動の弱さなんだな。
・ 調印するということは、どのような心持ちでしたか、負い目とか自責とか… 。
― 反対する人が少なくなる、建設省とかの認可が下りる、水源地域対策特別借置法の対象となる、外堀がだんだん埋められるような感じ、そのような背景で、農業がだめになって来る、高齢化になる、将来の見通しがなくなって不安定になって暗くなってくるわけよね。だからダムに希望の光を見るような感じになってくる。
・ ポジティブな姿勢で調印されたのですか、それともにっちもさっちも行かなくなったから。
― 住民組織としては色々協議したけれど、緒川村の場合は、調印を拒否しろ、するな、という意見はなかった。だから案外スムースにいった。でも絶対反対が13名くらいいた美和村は違ったんです。その他の70名くらいの組織は調印したんです。
・ 調印するということは、ダム計画を受け入れたということですよね。
― そうだね。調印の後は、補償交渉、条件闘争ですね。反対運動と条件闘争は違うことだよね。この調印は、建設を前提として調印することだからその後は、県と地権者、住民団体との条件闘争です。
・ その時点では、収用はありませんね。
― その時点では県は代替地などはわかってませんから。地元で調印しなければ、後の計画を立てられないという、県も辛いところがあるんだよね。だから調印した時点では地元も自分がどこへ行くかということもわからない。非常にジレンマだよね。
・ 緒川では移転予定者はどのくらいいましたか。
― 19戸ですね。
・ 条件闘争の内容はなんですか。苦痛に対する補償とか。
― 訴訟を考えたのはダム建設中止の後だから、精神的な苦痛とか物質的経済的に生活の計画がたたなかったこととかの補償とかだね。でも実際に収用や移転はなかったわけだから。
・ 実質的な損失や侵害がなくても、ここではなおのことさら憲法13条にあるように「自由や幸福の権利」が犯されたと言えるのではないですか。
― 協定したときは竹内知事ですから1991年、平成3年。93年には、調印はしたけれど竹内知事は逮捕されるわけだね。それで推進力がなくなってダム事業そのものが頓挫するわけ。そして橋本さんが知事になるけれど、彼はやる気がなかったダムをね。
・ なぜやる気がなかったのですか。
― つまり橋本さんは高級官僚ですからね、わかるんですよ。水が不足しているかどうか。当然県職員からの報告はありますから、水が余っているのに無理にこういう難しいダムを造る必要はないと。例えば橋本さんがここへ来て説明会やったときもはっきりとは言わないけれど、暗に中止されるような方向であることは言っていた。もうその時に水が余ってるんだということは言っているわけです。
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《 ナギの会、渡辺寛氏より 》
室原知幸氏のダム反対運動に触れられていますが、やはり正確に伝えられていないなあ、という印象です。室原の強烈な個性と、反対運動の華々しさの面がどうしても強調されてしまって、運動の本質(争点)が伝えられていないようです。なにしろあの運動から一番学んだのは建設省です。昭和40年に河川法が改正されますが、直接の動機はこの反対運動でした。
違法状態を河川法改正によって合法にしてしまいました。本来なら市民が学ばなければいけなかったはずだと思いますが、この裁判の検証作業を怠って?いたため、現在でもダム問題で連戦連敗を続けているよ
うに感じます。
改正前の河川法(明治29年成立)は、主に農業用水の確保と管理に主眼がおかれていましたが、戦後復興と新しいエネルギー開発のため電力供給(ダム建設)が国是となり、河川水を農業水利権から「略奪」する必要がありました。建設省は河川管理の基本法であるはずの河川法は変えず(農業側からの反対が強く改正が出来なかった)に、下位の多目的ダム法などで発電ダム建設を進めました。法の整備が整っていない中のダム建設は各地で住民とのトラブルが続出。違法状態が多数出現しました。
これを一つ一つ裁判で提起していったため、80件以上の裁判となった訳です。大きな争点に、当時の多目的ダム法は「基本計画(総合的な目的)」を作る必要があったのですが、下筌ダムにはその計画がなかった。明らかに違法です。
当時この裁判を担当した東京地裁の石田裁判長は、『公共事業と基本的人権』
の座談会の中で、「室原さんの主張は正しかった、しかし私はこれを認めると国がダムを作れなくなると心配し、法論理を駆使して敗訴にした……」旨の発言をしています。
また、数年前の毎日放送の取材にも(まだ存命でした92歳)「国は負けていた。室原さんは勝っていた」と発言しています。
この裁判で鑑定人として当時の優秀な学者が鑑定してますが、それぞれが現在でも通用する、過大な基本高水とか水利権とか山林の保全と洪水などの解析をやっていて、ことごとく原告側に有利な鑑定をしています。この裁判資料などを文章化したいと思っていて、いくつかの記録を集めています。室原さん所蔵の資料は関西大学の図書館に「室原文庫」として収蔵されています。いつか訪ねたいと思っているのですが……。
鑑定書の一つを入手しています。基本高水など流量解析の資料。鑑定人の方から直接頂きました。この方、高橋裕さん。当時新進気鋭の学者さん。その後建設省のご意見番の ような重鎮になられた。
下筌ダム問題に関して、4本のビデオがあります。当時の貴重な映像が多数あります。その1本が、監督:大島渚、語り:徳川無声 というドキュメント映画。これ今となっては歴史的な映像資料です。建設省が作った記録ビデオが2本あります。
推進側の映像ですが、貴重なもの。今でも下筌ダムの管理事務所で常時ビデオ映像が流されています。
もう1本が毎日放送の近作。丹念に過去を掘り起こした貴重品。石田裁判長の発言もしっかり記録されています。
それぞれが貴重な番組や映像なのですが、これらに共通する弱点は、当時の闘争の様子と室原知幸という人間の強烈な個性に焦点をあてていて、この蜂の巣城の闘いが、何を争点にして戦われたのかという、基礎的な検証がないことです。たぶん、基本高水とか洪水発生確率とか水利権とかいうテーマを理解できる記者がいなかったのでしょう。あるいは、これに踏み込むと「水掛論争」になって、視聴者が理解できなくなるという思いもあったのかもしれません。
なお、全ての裁判が負けたと言われていますが、1件の勝訴があります。これは上流から曳いていた飲用水が既存の水利権と認定され、この施設(パイプの保全が認められています。
(2007.1.30)
《 吉野川可動堰住民投票が提起するのも 》
講演「私たちが住民投票で求めたもの」姫野雅義(吉野川第十堰の未来をつくるみんなの会) / 海原恭示
《 苫田ダム住民訴訟 北川文夫氏より 》
訴訟は、
(1)岡山県の協力感謝金(地権者に土地の費用とは別に、早期同意すれば県が上乗せしたお金)
(2)広域水道企業団
ダムで開発されるという水を利用して大規模水道施設を県が主導して作り、計画通りの水の買い手が無いので、県が毎年出しているお金(平成10年度出資金5億2770万円+貸付金2億567万7千円 合計7億3337万7千円の支出回収の見込みは無いので、知事と出納長、広域水道企業団3者を被告として、この金額を県に返還せよという訴訟。その後も毎年「出資」しているのですが、訴訟は平成10年だけのものになっています)
(3)事業認定取消
文字通り、当時建設省の大臣が認可した苫田ダム事業の認定に対する評価がずさんであること
以上の3つの訴訟があり、協力感謝金については最高裁で敗訴しています。後の2つも地裁、高裁とも敗訴しました。
流域委員会などの活動を広めていきながら、粘り強く、社会の問題点は訴え続けていこうと考えています。
活動していた主な団体
苫田ダム建設阻止期成同盟会(宗森喬之代表:当時)
苫田ダム阻止土地共有者の会(由比濱省吾代表:当時)
苫田ダムに反対する県民の会(石田正也代表:当時)
ストップ・ザ・苫田ダムの会(矢山有作代表:当時)
緑・川・人ファーラムも活動団体ですが、主な活動は後方支援的な要素があり、広くこの問題を一般市民に知ってもらう運動を主にやっていました。
土地収用委員会のページでは、どのような経過で土地収用委員会が行なわれたかを見ていただけるのではないでしょうか。(2007/2/7) |
- b 1958―1970年の下筌(しもうけ)ダムの「蜂の巣城紛争」のリーダー・故室原知幸氏の抵抗運動をどのように思われましたか。抵抗は失敗に終わってしまいましたが…。
― この人は絶対反対だったんですよね。というか建設省のやり方が強引なところがあったのかな。それに反発して。性格的に強情なところもあったかもしれないけれど、強制執行もありましたから。ああいう闘争っていうのは普通の人ではできない。それに大山林主だった室原さんが全部訴訟資金とか出したんだから。あのころは土地が高かったし、木もちょっと切ればすぐ闘争資金ができた。最後は、強制執行でダムができるような方向になってしまうと、一緒に戦った仲間もみな離れちゃうんですよ。まあ、あそこまでやるっていうのは… 暴力的なやり方だからね。役人が来れば石を投げるとかね、汚いけど糞尿を撒くとかね。もちろん裁判もやりましたよ。どんどん。でもほとんど却下だね。勝った裁判はないですよ。それで最初はダム周辺の住民主体だったんですが、反対派は崩されるんです。でもそのうち代執行を防ぎきれないから、大分熊本の労働組合の応援を得て抵抗するんですよ。それがすごいんですよ、千人近く集まって。でも労働組合とか入って来ると今度は地元の人が離れますからね。
「蜂の巣城」紛争
・ それは激し過ぎるからとか。
― 激しすぎるのもあるかもしれないけれど、関係ない人が入って来たというのもあるでしょうね。 労働組合とダムは関係ないでしょ。だから室原さんは孤立するわけよね。
・ 目的とすればダムが中止になればよいのだから、誰が反対運動に入ってきてもいいのでは。
― でも自分のことは自分で解決したいっていうの、誰でもあるでしょ。他の人に応援されたり他の方法でやられるのは嫌だ、そういう住民が多いんだよ。
・ けれども、地元の可能性に限界があれば、外部に応援を頼むとか…。
― 農村の人の意識はそこまで考えないだろうな。それなら賛成して、どこか引越しした方がいいということになるんじゃないの。暴力的な運動というのは、室原さん一人が頑張って、村の住民はそれから逃げてしまう。室原さんは最後は寂しかったみたいだよ。私は興味があったので『砦に拠る』というノンフィクションの松下竜一さんの本を読んだんですよ。「砦」っていうのは「蜂の巣」、そこに閉じこもってやった反対運動。室原さんというのは絶対妥協しない。
それに裁判やるお金があったでしょ。闘争資金はほとんど一人で負担した。
『砦に拠る』松下竜一 1977年、筑摩書房
「公共事業は法に叶い、理に叶い、情に叶うものであれ」室原知幸。
・ それだけ自分の土地や村に愛着があったからとも。
― それよりも建設省のやり方が気に食わなかった、それに抵抗するということのようですよ。
・ 室原さんとはお会いになりましたか。
― 緒川ダムの遥か前だからね。でも新聞報道とかでやっていたから知っていた。チャンチャンバラバラやってたところが。
2000年1月に、吉野川第十堰で行われた住民投票(公共事業の是非を問う国内初の住民投票条例)で55%の投票率のうち91.6%の反対意志にもかかわらず、建設省は1040億円(以上)の事業を認定します。
川辺川ダムでは、2000年時点で、総工費2650〜4100億円、510家庭移住です。2000人の住民が国を相手取って新しい灌漑システムに対して訴訟を起こしていますが、プロジェクトの賛成派は票を膨らますために72名の死亡者をリストに加えています。しかし32年間心身ともに疲れ果てて、戦いに負けてしまいます。漁業の組合員たちは、それでも敗北を否定し、まだ戦い続けています。
川を流域住民に取り戻すための全国シンポジウム(2007/8/11徳島市)(川辺川ダムと八ッ場ダムはいらん)
2001年、44年間の実現に向けた調査を終えた徳山ダムには2540億円、土地収用113件、466戸移転、経済的に塞き止められた徳山村は消滅しました。2007年にダムは完成予定です。
2000年、清津川ダムは2500億円、350人の移転を予定していましたが、長い反対運動の後、建設中止になっています。
2001年時点、1957年に計画策定された苫田ダムでは1940億円、水没戸数470戸を数えます。町事業が国、県の補助事業として行われているなかで、事業認可などの権限の許可をしないなどの行政圧迫が反対派町長を次々と辞任に追い込みます。ダム反対地権者への切り崩し手段として利用された協力感謝金などの画策で1999年には事業認定にこぎ着けます。反対団体が、土地収用法に基づく事業認定取り消しなどを求めた訴訟を起こしましたが敗訴しています。(左欄参照)
2001年、4600億円、水没世帯数340戸、1952年八ッ場ダム調査開始。長い闘争を経て「現地調査に関する協定」に調印、実質、反対運動の旗は下ろされますが、ストップさせる会、八ッ場ダムを考える会などの住民訴訟(反対運動)は続いています。
八ッ場ダムをストップさせる市民連絡会
資料より
ダム建設の目的は治水と、首都圏への水供給!?…
・ もしもやり直すならば、今度はどのような戦略をとられますか。
― やり直しか?(笑)もうないでしょうね。でもやり方としては前と同じでしょうね。まずは住民で組織をつくって。ただ今は、住民の反対運動があれば、県の方では強行しないという傾向なんだよね。
・ 県や国の権力でいえば変わっていませんよね。
― 今はもう職員が動かないよね。実際にダム関係で説得や交渉に来るのは県の課長クラス以下の職員。その職員が本気にならないとダムはできないよね。地方公務員の任務を強行、自分の身分を犠牲にしてもやるという気構えはないですよ、今は。
・ 例えば吉野川第十堰の住民投票に関してはどう思いますか。
― 住民投票ができるということはいいことだと思います。
・ 現在は公共事業の計画があれば住民投票が行われるのですか。
― いや、やってないですね。市民運動や反対運動がある特殊なところだけだね。他には、常識的に見て「絶対必要ないんじゃないか」というような、世論的に見て、そういうところは住民投票で決着つけるというところはあるかもしれないけど、普通はやってないね。
・ 村長や市長が、当然住民に意見を求めるべきではないでしょうか。例えば常陸大宮市議会解散のときに市民運動から要求された住民投票とか。
― あれはいわゆるリコールですよね。あれは地方自治法に定めてある正式な手続きをもってやったわけでしょ。だけど公共事業に対する住民投票というのは、法的な裏付けがないんですよね。だから市民運動が盛り上がってないとできない。
・ 緒川ダムの時、当時、住民投票の提案はありましたか。
― ゼロ。住民投票というのは市町村が単位になるわけでしょ。ダムに関係するのはごく一部の人だから、村や市全部に広げるということは不可能なんだよね。
・ 他の緒川の村民達は…。
― 関係ない…ってかんじだった。
水没の難を免れた民家と畑、今度は新しい道路が横切る
難を免れたダムサイト予定地、今度は新しい橋ができる。
「橋ができんのは10年後だろうね、その時わたしはもういないから…」
予定されている橋のすぐ前に住む85歳のおばあちゃん。
『幻のダムものがたり』小林茂氏インタビュー【2】へつづく
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