-- 認識されたものの源泉の匿名性 --


Mami PYの仕事、ワークショップ/展覧会 DO YOU LIKE YEN ? で、私が好きなところは、アイコ・オカモト=マクファイル(1)が網野喜彦の日本社会の歴史をみなおすことに関して言及しているように、国家間や経済的、社会的なリミットやフロンティアを開口と同様に定義しているところだ。社会のリミットや、地理的なフロンティアは、人のグループからグループへの移動や、国から国への通 過や経済の行来を閉ざすけれども、媒介ゾーン(社会発展、市民平和)や、中間ゾーン(アイデンティティ形成の場としての)や、あるインターフェイス (意識のダイナミズムゾーン?)は、Mami PYの社会的アートにとっては、少なくとも非戦闘時の市民生活で、人道的なクリエーションのある、通 貨、労働や交換の機能に対して理解をもっているような世界に開いている。

          (1)-"Zone of intermediacy" A.Okamoto MacPhail author of "Imagining Modernity : Japanese Westernism and European Japonism"

網野氏がインスピレーションを受けたように、Mami PYもリミットの概念(ここでは経済・通 貨・円)つまり媒介ゾーン(大企業のグローバリゼーションや愛国心、文化を脅かすエリート意識を優遇するような通 過点ではない)、経済のエコロジーを重んじようとするインターフェイスへと導いている。DO YOU LIKE YEN ? は、家庭経済、経済のエコロジーについて問いを発しているのだ。

オカモト=マクファイル氏は 「網野喜彦のいうところの外に開かれた概念は、地理的に歴史的に孤立した一個の政治体としての日本、という固定観念を崩してゆく」 という。「日本の歴史を読みなおす」の英訳者であるアラン・クリスティは、盗賊、海賊、漁師、百姓、平民という人々の機能や身分の再評価は、伝統的な史料編纂の流れによって周辺化され消し去られていた、という。 (2).

          (2)-"Rereading Japanese History" by Amino Yoshihiko translated by Alan Christy

網野氏の目的は、現在、日本の過去に関する歴史の明証の成り立たない数々のステレオタイプな仮説を消散させ、その理解が社会の多様さやフロンティアの揺動性という過去を再考するだけに終わらないようにするということだ。 また、ここで我々は「日本人である」さらに「人間である」という意味をより理解するために、Mami PYに近づいてみるのだ。

DO YOU LIKE YEN ? の提示しているキーポイントの一つは、(パリのアート・スペース、エオフでは意図的にインタラクティヴな参加型ワークショップ − フロンティアのないアイデンティティを助成する − 操作された社会の中でピンクの円を作る)そして、「国際通 貨:円」の波上を徘徊するアジア日本の新帝国主義的貿易に対する、まさに、マルクス経済評論家の北村巌の論点の中心なのだ。(ここでいう円は、中国、韓国、ベトナム、インドネシア、タイ、インドの中央銀行がドルに代わる準備通 貨、フェニックス?(新一万円札の不死鳥)として。) (3) (4)

          (3)-"Yen Currency Region" by Iwao Kitamura
          (4)-"Emission du nouveau billet de 10 000 Yen/juillet 2004"


芸術、社会に関するMami PYの考えは、庶民や労働、生産手段の合理的、経済的、技術的、美的開発のために関税フロンティアの廃止にいたった80年代に君臨したニセの解放口へとは飛躍しない。彼女の仕事は、我々に言わせれば、全く反対の、現在・未来・過去の匿名性、認識されたものの源泉、網野氏によって見事に防衛されたインターフェイス、つまり威厳ある個々に発言権を与える。DO YOU LIKE YEN ?は、この点においては社会的作品といえるだろう。彼女の社会認識は、中学生のデッサンやプロの写 真作品、新聞の切り抜きや引用、グラフィティーや歴史・政治問題を扱ったポスター、美術館作品、コンピューター作品など、エキシビション/ワークショップに向けて作成され提供された無名の人、有名人の作品を扱うことで、同時に新しい社会の歴史への視点で、ある一つの「インターフェイス」というものの匿名さ、または社会、政治、宗教、文化的な関係の匿名さ、という歴史の新しいレクチャーを提案している。


Mami PYの社会作品は「円が好きですか?」- 両面性を持ったヤヌス - という自由主義の曖昧さを現す中で、少数者排除や部落などの差別(5) や、名前の無いこと(教科書に書かれていない史実)を勝手な解釈で利用するような日本的征服心を、もちろんアメリカ的なそれも示唆している。 また、インドの歴史家ロミナ・ターパル(6)が文化と市民アイデンティティ論「パラディグム シフト」(7)で「歴史というものは、過去を(政治的に)管理し自分達の正当性を求める支配者グループによって綴られる」。ターパルはさらに「The Search For A Social Ethics」で、「現在、自由主義やヒットラー・ヒンドゥッヴァ主義/政党が掲げるヒンドゥー・ナショナリズムは、アーリアン民族至高(純血)主義の名における個々の特徴を前提となす。過去にインド的特徴として合法的に認知された(にもかかわれず)非ヒンドゥーの特徴を排除するよう奨励しているのだ。観念論者=愛国主義者は、民主的な権利を尊重せず、それを決して用いることがない。そして、ダリットや部族、キリスト教徒、回教徒などの恵まれないまたは周辺化されたグループに恐怖を抱かせるために行使されるメソッドはまさにファシスムの道具にすぎない。」という。

          (5) "The buraku anti discrimination movement and Declaration of Human Rigts in Japan, Tokushu Burakumin!"
          (6) "The Search For A Social Ethic" by Romila Thapar
          (7) "A Paradigm Shift" by Romila Thapar



クリスチャン・ポーズ(研究者)
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