本当に暑い暑い2週間の間に60点を越える作品を、パリでの展覧会やネットで集まった作品に新たに加えた東京での展覧会が終わりました。援助資金を寄せていただいたり、作品を作ったり持ち寄ったりしていただきました。そして、猛暑の中よくいらして下さいました。ありがとう。

お金の話で始まり、創作札を貼り、お金の話で終わったこの展覧会。そしてこの展覧会を開催するために集められた皆さんからの募金の最終額は、35名から124000円というギャラリーからのお知らせがありました。当初の目標金額を達成し更に越えることができたのは、なによりギャラリー側の呼び掛けとイニシアティブに由ることをここに記します。
その集まった金額と、有志2名+私(3等分)の出資90000円を加え、最終的にギャラリー側に負担や迷惑がかからなかったことを祈ります。
そして私の方で集めた18560円(15名より)の募金は、11月か12月に配付予定している新聞の作成費にあてるつもりです。
その他、無償で機材や机などを貸していただいたり、写真を撮っていただいたり、配付物のデザインをしていただいたり…と様々な協力をいただきました。


「お札に落書きをしてみよう」

DO YOU LIKE YEN?は、「お札に落書きをしてみよう」という単純なアクションです。それは個人個人の経済観を表してみましょうという投げかけです。
金満主義でもアンチ資本主義でもいい。他国のお札でも自国のお札でもいい。一部の経済利益のために犠牲になった苦しみでもいい。お札の図柄になっているシンボルをいじくってもいい。エキゾチズム、ナショナリズム、反日感情、願望…。そこに個人の経済観が表現され、それを序列を付けず並べてゆく。これが目的です。

DO YOU LIKE YEN?の構想自体は2000年には出来上がっていましたが、どのようなコンテクストで「展覧会」を作りあげてゆくかという課題だけが残されていました。例えばこの企画は機会があればいつでもいつまでも続ける事ができるし、時代や時期によって参加者もアトリエを行う場所も違えば、時の流れが観察できるかもしれないし、時代が繰り返すのをただ確認するだけかもしれません。ベースにインターネットを用いて一種の展覧会を常時発信する事もできると思っています。

2000年は日本がまだ政府開発援助(ODA)世界第一位にあり、そのころからフランスで流行ってきていた"ゼン"(宗教の禅というよりは、平常心でクールなという意味で使用)や漫画キャラクターなどの "日本的" と、 世界における日本の経済的な脅威のズレを私は愉快に眺めていたのです。
そして9・11が起こり、CD-rom "SERIE NOIRE"を作成しました。株式の数字と出来事の因果関係を綴っており、アイデアは特にオリジナリティーを持っているわけではなく、当時からも、いやその遥か前コソボ紛争の時点で経済利益と戦争の分析(バルカンにおける不正取引と犯罪)は行われていたし(もちろん単純な利害や社会的不安、政治的混乱から来る害悪を被りたくないという主な理由(欧州)や世界秩序を押し付け国際社会のリーダーとなりたい(米)新たなる世界秩序)、アフガニスタン攻撃においてはそれは明らかになっていったと思います。CD-rom "SERIE NOIRE" はタダで配られており、金銭とのトレード、交換価値システムに関与するのを避けています。
(余談:紛争時にノビサドで空爆を受けている最中だった知り合いはNATO軍の攻撃を当然批判し、イスラエル人でフランス人の友人がこのユーゴの知り合いに対してNATO指示を表明していた。その時はそのような「傾向」の理由がよくわからなかった「華氏911」とイスラエル
そしてイラクへ突入したこの利権戦争…。


日本国 - 外国

この夏、私は長期間日本に滞在しました。その間、イラク情勢は安定しているのか、と思うくらい一般に目にする情報は少なく、フランスに帰って、メディアのトピックスには必ずイラク情報とイスラエル・パレスチナのニュースがあったので、戦地に日本国の旗の元に人間を送っていて、イラクにもアフガニスタンにも皆さんの血税!から出ている復興援助金!?を送りながらも、あまり関心がないのだろか?と疑問に思いました。当事国のメディアの戦争報道への姿勢が問われるのではないでしょうか。
フランスは現在も解決されていない仏人記者の人質問題をマスコミが特に頻繁に取り上げています。(2004年12月21日、4ヶ月を経て人質は無事解放されました)

ここで指摘があったという「mami PYは日本に住んでないのに、なぜ日本の(私達の)円を題材に使うのか」という点を少し説明すると、私は外国に16年間住んでいますが、国籍は日本国のままです。フランスでは私は移民。フランス人ではありません。外国に3ヶ月以上住むといきなり襲い掛かってくるビザや各種許可証の取得、条件、アイデンティティ問題…。
私は複数の国にまたがり複数のエスニーと交流することで、「ミスティック・ナショナル」と称されるところの国家的信仰、国家的神秘主義、国家的寓話、国家的迷信に陥ることを避けようとしている…このような罠からの脱出を試みていた…。それは一定の距離を保つ事で明確化されてゆくアイデンティティの拠り所になったのです。
そして概要の中でも説明したように、「私は怒っている」という大江健三郎の有事法に関するリベラシオン一面 に掲載された記事は、日本人の視点を外国で消化させ消化不良をおこしている日本に戻してゆくような作用を試みたように思います。私は、こういう事でもいいのかもしれない…と思いました。
上記のご指摘には「外国、日本国」という表面的な観念や、「私達のシンボル」というようなニュアンスがあるのではないかと想像します。

ロ−マ神話では(january 英 / janvier 仏、janua ラテン語(入口、道)1年の始め:1月を捧げるJANUS ヤヌスの双頭は、過去と未来を向いており、2つの相反するものを司る能力を授けられ、同時に門の守護神であるという。ヤヌスの神殿は戦時には門を開き儀式を行い、軍隊や使節が通り、平和になると門の扉を閉じたそう。派生して、コインの表裏、二面性、二元性。
精神医学ではこのような(双頭)二面性を持ち合わせることを、精神的二元性の寓話と解釈し、この二元性はルネッサンスの宗教的解釈では死と生の世界の合流を欲する。例えば、精神的癲癇の症状は、蘇生を現わしている死の状態として捉えられるという。(ヤヌス写 真など

この展覧会でイラク戦争のことや日本の経済観念などをコンテクストとして挙げたのは、最初のパリでの展覧会で、上記の日本の二面性、勘違いのゼンという流行り言葉やエキゾチズムをステップに取りきっかけを与えることを考えたからです。
ヤヌス的表裏を持って、支援としての不透明さが問われているODA(2001年から米国が世界第一位)や軍隊を世界に送りだすアメリカ、そして日本。歴史を創り未来を築く大国。私達が布施をし、奉献する守護神とは、経済的なフロンティアを無くそうとしているグローバリズム自由主義ではないのだろうか?(むしろ不可侵の国境は、"アメリカ"と"その他残りの世界"の間に1つだけ置くという構想)
(余談:日本に向けては、ヤヌス云々ではなく「大黒の三顔」(戦の神/闇の神/富の神、大黒/大国主命)とか「神々達の二面性」などとすれば親しみやすかったかもしれません。)

1945.8.6と2001.9.11を同等に扱っている作品がけしからん!という御指摘をいただいたそうなので、日米関係を考察する一例をここに載せておきます。『ヒロシマからツインタワーへ』


アノニマス

この展覧会の60点以上の作品には99%サインがありません。実は私はびっくりしたと同時に微笑みました。しかし作者を紹介する場合名前がないのは少し都合が悪かったな…と、手際のまずさを反省しています(よかったら名前や連絡先、リンク先など教えて下さい!)。「微笑んだ」というのは、他のプロジェクトでは私はアノニマスで活動していたりするからです。アノニマスとは名前がない事で、人格否定でも人間不在なわけでも、洗脳するための隠れ蓑でも操作対象の主体という意味でもありません。(アノニマス・アクション「オレンジの話し」では、所有権、著作権、作品とはなにかについて考察している)
ワークショップやアクションのオーガナイザー(時には作者=参加者)をアノニマスにすることで、固定観念を与えたり操作することなく、作者は自由につくり、見る人は作品のそのままを観想できるのではないか? 私はそのような状態に、作る・見る行為を置くことの中にコミュニケーション(コミュニオン)の可能性を見ていますが、名前があるからといってそれが不可能というわけでもダメなわけでもありません。名無しで成し、名無しで見る…ひとつのスタンス:エッセ(試み)です。

私のプロジェクトの一つ"アノニマスデッサンの展覧会"に関しては、実現に至っていないしまだまだ考察の予知があります。幾つかのパリで見たアノニマスをテーマにした展覧会では、作品にヒエラルキーをつけたり、名前当てゲームのようになっていたりして、私の考える「名称(言葉)によって存在する(歴史的・文化的に形成された)差別」から解放する「アノニマス」(複数の箍(たが)をひとつひとつ除いてゆくような)とは少し趣をたがえています。DO YOU LIKE YEN ? では私はmami PYと名乗っています。

この展覧会は名前のない署名運動のようなものかもしれないけれど、一つ一つの作品が不特定多数のマスの中に埋もれるということでは決してないと願っているし、参加動機はそのまま作品で読み取れるようなものであって欲しい。参加(作品/資金援助)の本当の動機(本当に賛同してとか、おつき合いとか、義理とか、ひやかしとか)も理由も知っておかなければならないという必要性は感じませんでした。
パリでは(パリの事はどうでもいい!という御指摘もありました)参加者の、好き勝手な、おしゃべりあり、歌い出す人もいたり、私の思いなど越えて彼らの、一人一人の世界が出来上がっていた。ま、ルールがあってもなかなか従わないフランスの人々ですが…

開催途中でギャラリー側からの提案もあって、来場者に幾つかの質問をしそれをビデオに撮りました。インタビューは私との対話のような形で行われました。それは社会学とか興味またはアネックス的な範囲で意味深いと思われましたが、ビデオ編集の術がなく、そのまま宙ぶらりんになっています。(御協力していただいた皆さん-10名ばかりかな?- 率直に答えてくれてありがとう)

上のような理由から、アトリエに来てお札を作成する人には私の経済観、アート観などと離れて、例えば有時法のことなど興味なければ、他の好きな事を自由にかいてくれればいいと思った。「誰も考えることはせず、感情を煽る」ようなイベントは私には無意味に思われた。 ただ、御指摘もあったように、日本で開催するにあたっては、政府開発援助や日本人の経済観などの序文は、うるさく説教がましいものに写ったかもしれないし、下手に方向付けてしまったかもしれない。それは私自身の「日本YEN」に対する個人的な心情だったのかもしれないけれど、曖昧に門戸を開かずに私のポジションや心願は隠さず表明しておかなければいけないと思った。その上であえて自由テーマにする(ややっこしい?)ことで、作者の意識がより表出しないだろうか?(偽札ではあるけれども)お金にいたずら書きをする!ことで個人の経済観が表れない方が、反対に不自然かもしれないけれど…

私が提案したTABLE RONDE(栄誉席のない丸いテーブル=誰もが同位で発言できる場)は残念ながら行なうことができなかったけれども、この展覧会は先生や指導者不在の表現の場で、作者・観客が自律し、作品の優劣もなく、個人の心情や思想、生活を自由に表わすことのできるスペースを作るという目的があったのです。それが、私があえてやろうとしている「展覧会」なのです。


「家庭生活と経済のエコロジー」

DO YOU LIKE YEN?には「家庭生活と経済のエコロジー」というサブタイトルが付いています。
現代の理想理念である発展・進歩を無反省に信奉する道の延長上(真っただ中)に我々はいることを認識しつつ、新生活様式の確立を目指す=エコロジーということかもしれません。生活原理に基づきながら合理主義ではない合理性、享楽主義ではない快楽性を持ち合わすことのできる生活。忘己利他ではなく自利利他のライフスタイルを目指して。

「(…)我々は未来のために、成長と開発という2つの概念を根本的に区別しなければならない。福祉の向上と人類の潜在能力の開花は、生産と消費の無限の量的成長という道の外で、商品と交換価値の道の外で実現される。それは、使用価値(*後出)の道であり、これを軸として形成される社会組織の質という道である。(…)

この切り離しは、大多数の市民にとって受け入れられない無差別な縮退によってではなく、生産プロセスの変革と文化的表象の変革を始動させるような、選択的な減速によって実現される。まずは成長を減速させる。これが、選択的な縮退に着手する前の最初のステップとなる。選択的な縮退の手始めは、有害な活動の縮退である。一連の変革によって目指される経済では、公益的な製品とサービスの質が重視され、既存の所得がより平等に分配される。さらに、生産性が向上するにつれ、労働時間の短縮が定期的に実現される。それが、成長という枠の外で雇用を促進する唯一の方法だからである。現在の発展モデルを見直そうとしても、資本主義的な社会関係を同時に見直そうとしないかぎり、現実味をもたないことに留意しなければならない。

 環境の悪化、不満足、抑圧された欲求、不平等、不正義を生み出すような生産を無限に増加させるためにではなく、経済活動による所得の公平な分配によって労働時間を短縮していくために、生産性の向上を活用する社会。そのような社会の進化として開発を定義することは、現行の開発に対する批判の手をゆるめることではない。生産性の向上が労働条件や自然環境を悪化させることなく獲得されるなら、功利主義のパラダイムに立脚する必要もなくなるからだ。
 人類が発展以前の段階に後戻りすることはなく、したがって生産性の向上が現に存在し、今後も存在し続けることを認めるのなら、その生産性向上の活用は、生態系の再生産と両立できるようなかたちで考えられなければならない。我々は次のような仮説を立てることができる。労働時間の短縮が進めば、さらに多くを所有することがよりよい生活につながるという幻想を、我々の想像世界から払拭できる可能性がある。また、貪欲な資本の手を逃れつつ、公益サービスや社会保障、そして文化を拡大していくことができれば、市場がもてはやす富とは比べものにならないような、計り知れない富が生み出されるようになる。発展という問題の背後には、労働の最終目的への問いかけがある。それは、節約と連帯の社会へと向かう道である。」


これは2004年7月号、ル・モンド・ディプロマティックに掲載されたボルドー第四大学助教授、ATTAC学術評議会メンバー、ジャン=マリー・アリベ氏の 『必ずしも発展に成長は必要ない』(訳・加茂省三)という記事からの抜粋です。対反開発主義論など、私の謂わんとしているところの新モデル、エコロジー観を何倍もうまくわかりやすく説明されています。


オルタナティブ

最近こんなDMをもらいました。→ http://www.academie-sans-toit.tk/ 屋根無し学院(道ばたアカデミーとも訳せるかな?)。

オルタナティブには「抵抗」と「平行」の力があると思います。「抵抗」は権力や既成システムや大きな流れなどに対抗し(または対抗せざるを得ない)批判精神を持って存在しようとする。「平行」は「もう一つの」「相互」という形で現存の体制と共に存続しようとする力。
どちらにしろ、創造物(生産物/作品)がシステムの中で価値を与えられようとすると、頭をもたげるお金の問題は、折衷案のようだけれども理解や取り組み次第で独自の社会的地位を確立するオルタナティブの中では、ある種の「放棄」に似た暗黙の了解があると思われます。それは「大展覧会」や「大イベント」に到ることのできない未熟なステップではなく、反対に、幻想を排除した現実社会そのものの姿です。
そこには問題としてのお金は介在しません。(お金が介在しないとは言っていません)

「使用価値とは、財やサービスの効用である。これは、質的な概念であり、計測することができず、貨幣で表される交換価値に還元することはできない。交換価値とは、2つの商品が貨幣を介して相互に交換される関係のことをいう。この区別の強調は、すべてが商品とされることの拒否を意味する。」(前出 アリベ『必ずしも発展に成長は必要ない』、註(22)引用)

「「真・善・美」の利益をあげうる発散物〔象徴的価値〕は、いまだに高貴な芸術に付着しており、これは比類なきイメージの移送に絶好のチャンスを提供する。あるいは疑いから解放された「真・善・美」は、たとえ数字に換算することは難しくても、象徴的で莫大な資本を意味している。」(『自由-交換』ブルデユー/ハーケ 藤原書店 p.176 訳コリン・コバヤシ)

問題は、発表の場が、すでに聖域になり「象徴的で莫大な資本」を先に目論んだ正統性を持っており、そこで展開されるイベントや納められる作品が、聖域にも正統にも(まだ)達していないという開催者や場の持ち主の判断が、作家に金銭的負担を課すような貸画廊などのシステムは、そのような場所で発表する作家の類を限定するだろうし、交換への目的をやみくもに助長するにすぎない。(作家は自分の作品にできるかぎり投資し、金銭的に苦しくなったアーティストは家賃の高い都会(パリやフランス)から去ってゆくのも当然の成りゆきなのだ)

「質」を「物/金」と交換することの難しさやもろさ、それが巧妙な技術をも要することを身にしみて知っているのは、プロのギャラリストでしょう。(税金控除のメセナ活動が、その企業の犯罪を隠ぺいするような仕組みについても『自由-交換』の中で言及されている)

そして「真・善・美」の商品価値と、自律性・表現対象との狭間やズレのなかで揺れ動く作家達。

オルタナティブという新たな場は、まず金銭問題を(表向きには)二の次に置いているところは、注目に値しないでしょうか?
「知識や生命そのものを私有財産化する考えに対するオルタナティヴ=公共知的所有権のための運動…」「知的所有権と多国籍企業」(c)種子銀行と公共知的所有権 田中正治)というアグリ-カルチャーが直面している問題と、カルチャー(芸術など)が抱えている価値意識問題と交換価値に対するオルタナティブ的な考え方や、絶対的判断がないことへの恐怖を軽減するためのオルタナティブは、前出の「節約と連帯の社会へと向かう道」へと繋がるのではないでしょうか?

DO YOU LIKE YEN?というある一つのコンテクストによって集まった参加者の、誰も犠牲や負担をおわずに利を得る、アクションそのものの効果の速効性はなくても何かに繋がってゆく… 私の願う「繋がり」は、「節約と連帯」をもって加担することで、その均衡がとれなければ犠牲を伴うような禁欲主義や反開発主義に傾いてしまったり、交換価値の生み出す「繋がり」という幻想をもたせるような自由主義にすり替わらないように。
そして次に実現される共同イベントなどの具体的な「繋がり」ではないかもしれないけれど、フラクタルの世界が1つの型を拡大した複素数の世界に在り相互依存していたり、バタフライ効果のように遠方で多大な影響力になっているかもしれないように、何か縁があって出来事の原因となり結果となり、linkedしている自分… そんなことの確認だったのかもしれません。どうでしょう?



決算!?

と、ここまで書いて、資金援助に参加していた皆さんに提案があります。

ここに記したような私の思いや願いのようなものが「全然伝わっていない」どころか「据傲(高慢だったかな?)で甘いプロジェクト」甚だしいという批判を、ある一人の方から受けました。それは開催中の私の不在は無責任で参加者を高圧的に扱っているという判断から、すべての期待や信用(最初からあったのかな?)が崩れた結果のようでした。(通算7日程ギャラリーに行きました…)

上記に記した通り、自発性や自主性、自律性や自由さを重んじたこのアトリエでの進行をギャラリーに託しました。私が経験した数々の「オルタナティブ・アトリエ/アクション」では、主催者や提唱者はたいがい姿を消し、参加者が主役となり自覚を持って賛同するような仕組みに(自ずと)なっていました。日本ではそうした場の作り方が有効でない、または不安・不快である理由はなんなのか…考えています。

そこで、もし「前もって告知されていたものとは全然違い憤慨」していたり「無理して資金援助したのになんの見返りもない」と後悔していたり「無駄金であった」と判断される方がいたら、是非メールを下さい。援助金額を記入していただければ、郵便振り込みなどで、同額を返金しようと考えています。
それともこんな風に考えていただいてもいいかもしれない「皆さんの援助金により展覧会を開くことができました。今までお貸ししていただいた金額を、利子は付けられませんが、今は私の方で少しづつ払えます」と。

勘違いしないでいただきたい。正義感や潔さを見せたいわけではなく、金銭の借りを作らず、「節約」を適用してゆきたいからです。皆のお金を節約するのです。
「犠牲を出さない」 という私の理想案が、発信元から崩れてしまったのでは「殺すな!」と言って「自分が殺さない」という自覚に欠ける、自己喪失状態だと思うからです。

反省も含めて、長々と不器用ながら書いてきましたが、見解の違いはあると思いますが、勘違いやズレを修正することは、このような「節約」につながることだと思っています。
後、御意見などいただいた際にはサイトにアップすることも考えています。

最後に、作品をサイトにアップすることが都合で10月になってしまったことをおわびします。ごめんなさい。 (2004/10)

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