基礎工事、もう後戻りできない
見えない何かに背中をグイグイ押されて、「後で考えられることは、後で考える」アクティブでオプチミストな生き方もしてみよう。
基礎工事屋を決めなければいけないのに、コネクションがない。基礎工事の値段は安くない。察するに、我々の予算を鑑みて、誰も基礎屋を紹介できないという事態に陥ってしまった。
何事もそうであるけれど、時間によって構築された信頼や仲間という意識がベースにあれば、援助やちょっとしたサービスも受容し得易いが、なにせこちらは新参者で一匹狼なのだから、世間も厳しい。
独り者の頼みの綱・インターネットも、地方の地元の情報はその時は皆無で、「○○さんという人が安くやっている」とか「XXさんが今自分で基礎打っている」とかの人伝いの話は後日耳に入ってきた。
ある日、住宅設備の大きな看板を出している建築屋(土建屋でもありリフォーム屋でもあリ)があったので、ボイラー関係の資料をもらいに立ち寄ると、基礎工事や造成もやってるという話だったので、状況を説明して、だいたいの値段を聞く。何日か後に現地を見に来た「こんなにすごいところだとは思わなかった」と言う基礎屋さんの言葉に「え、ここってそんなにすごいところなんだ…」と今更ながら不安になった。
何か大きな注文をするのに、お得意さんでもなく、確信が持てなければ他のいくつかの見積りを比較検討するべきであるし、注文内容の新たな確認にもなる。
交渉方法は多様にあるだろうけれど、箇条書きにされた仕事と単価は絶対に下がらないとしても、その日数や無駄な項目をオミットするだけでも、もしかしたら半値くらいになる可能性はある。
そして法外な値を提示している見積りには、こちらの足元を見ている、もしくは、やりたくないという意味が読み取れる。
わたしの場合は、造成と基礎という二つの大きな項目の他に、伐採などがあった。
大きな木はなかったけれど、必要以上の木は切りたくなかった。 工事の人は、仕事がやりやすいという理由だけで木を切りたがったが「切らなければ車が通りませんか?努力していただいてもいいですか?」と念を押すと切らずに作業のOKが出た。
最初「私たちは状況に合わせて仕事をする」と言っていた工事の人も、我々の要求が細かいことがだんだん許容できなくなってきたようで、打ち合わせの時にしつこく確認をした「自然のままに」「エコロジー思考」「現状を尊重して」などという今となっては面倒くさいフレーズは、「2トンまで」と約束したはずの暗渠の上を4トン以上で何往復もしたバックホーに済し崩しにされてしまった。
そして初めてバックホーのドドドドとカラカラの大騒音が山の麓から聞こえてきた日、戦車に攻撃されるような、はたまた味方の装甲車が援助に現れたようで複雑な気持ちになった。それも、私の指令によって。
もう、これで引き下がれない。ああ、事は始まってしまったのだ。
我が土地は、進入路が登りの70mほどあり舗装されていない。四輪駆動であれば楽に登れるが、雨の後の普通車は容易に上がれない。我々は、荷物や機械を持って100mほど歩いて現場にやっと辿り着くことを1年間続けた。
その進入路に砕石を入れるかでかつて問題になったが、50トンを提示してきた土建屋さんは論外でも、滑る箇所には砕石を入れてもよかったと思うのだが、夫は嫌がった。
狭い道側の木も切らせない、砕石も一切入れさせないこちらのやり方に、施工者は苛立った。
普通施主は、工期を延ばしたくないから妥協するが、夫は「そうやって急いでやってしまおうとすることが無駄な自然破壊を生むのだから」とわざとゆっくり構えた。一切妥協しない譲らない。そして施工者とも喧嘩になった。
「雨の日は工事は中止。ぬかるんでいて車が上れないのなら次の日も来なくて良い」と施工者に伝えると、かなり向こうの都合で、工事は先々に延ばされた。
現場監督も施主もわたしなので、わたしが決めるのだが、ここが大変日本っぽいところで、表向きには夫である「ご主人様」の意見が尊重される。わたしはといえば、どちらの意見も正しい時は、しばらく考えるために夫を楯に使ったりしてみた。時間が無駄に過ぎることもあり、板挟みにもなるこのやりかたはベストではない。
そして、”こんなにすごいところ”を重機で文明化する仕事の基礎屋と、”このすごいところ”の”造化に従い造化に帰る”、あるがままにを生きるが仕事と信じている我々。両者の差異は最初から最後まで埋まることはない。